この記事を書いたライター

伊藤祐介

伊藤祐介

「世の中に届ける情報は自分の目と耳で確かめたものだけ』をモットーに、取材と撮影をベースにした執筆を続けています。サラリーマン経験が長く、ビジネス系のコンテンツ制作が主戦場。それでも最近はグルメ本の制作、動画制作など幅を広げています。

2019年1月18日
フロンティアスピリッツ

フィールドディレクター 油井元太郎(MORIUMIUS代表)/フロンティアスピリッツ vol.4

「キッザニア」の名は、多くの人が知っている。子どもたちが主役の職業体験テーマパークだ。そのキッザニアを成功に導いた創業メンバーの一人が、今回のインタビューにご協力いただいた油井元太郎氏だ。現在は、東日本大震災の復興支援に取り組む「公益社団法人MORIUMIUS」の理事として活躍。石巻市雄勝町の廃校を複合体験施設に作り直し、子どもの教育を通じた地域復興を後押ししている。

油井氏にまつわる、キッザニアとMORIUMIUSでの成功物語は、数々のメディアで取り上げられている。その活躍を知りたければ、Webで調べるといい。

今回のインタビューは、油井氏の成功物語を追うものでなく、そこにたどり着くまでの人生にスポットライトを当てたものである。けっして劇的ではなく、時には平凡に見える人生こそ、大きな爆発力を秘めていることがある。時代背景をふまえながら、成功のヒントを探ってみたい。

じっくりと相手の話を聞く油井氏


人間形成に大きな影響を与えた渡米

油井氏が生まれたのは1975年。日本では、日本コカ・コーラが缶コーヒー「ジョージア」の販売を開始した。同じころ、アメリカでは、ベトナム戦争が終結。反戦・反社会運動を展開した若者のヒッピー文化も終わりを迎え、若者たちの興味は音楽やファッションに向けられていく。

80年代に入り、小学生になった油井氏は、父親の仕事の関係でアメリカへ引っ越すことに。場所は、カリフォルニア州のバークレー。ヒッピー文化発祥の地として知られ、同性愛に寛容な態度を示すなど、進歩的な街として知られている。

「日本を離れることが嫌ではなく、むしろ、海外に住めることにワクワクしました」

油井氏は、近くの湖でブラックバスやニジマスが釣れる、そんな自然豊かな街に移り住んだ。アフリカ系、アジア系やヒスパニック系の人たちなど、入学した小学校には、多様な文化を背景にした子どもたちが通っていた。英語をまったく離せない子どもがいたら、いじめの対象になるのは目に見えている。

「腕時計や上着などはよく盗まれましたが、いじめはあまり問題じゃありませんでした。それよりも、『こいつらにはスポーツで絶対に勝てない』とか、『ユダヤ人はどうして頭がいいんだろう』とか、子どもなりに人種の壁を感じました。自分の限界を感じるというか……。それでも、『こんなに楽しい場は他にない』と、前向きな気持ちで過ごしていたことを覚えています」

まさに「人種のるつぼ」と呼ぶに相応しい場所で多感な時代を過ごした油井氏は、多様性を受け入れるようになった。同時に、どんな境遇でも前に進むチャレンジ精神や、負けん気を養うこともできた。油井氏は、自身の小学生時代をそのように分析している。

80年代のアメリカでは、MTVが若者文化に大きな影響を与えていた。マドンナやマイケル・ジャクソン、クイーンが活躍した時代。夢中になったのは、油井氏も同じだった。

「当時は、音楽が自然に生活の一部にありました」

アメリカに渡り1年ほどすると、突然、英語が理解でき話せるようになった油井氏。おかげで、アメリカの生活はとても安定したものになっていた。しかし、数年後に油井氏は日本へ帰国することに。

「できればアメリカに残りたかったです」

葛藤を抱えていた学生時代

小学生時代を懐かしそうに振り返る油井氏

この頃の日本は、国際社会を意識するようになり、英語教育にも熱心であった。中学校では、「書く・読む」から「聞く・話す」が主体の英語教育に。そんな時代にアメリカから帰国した油井氏は、中学校でさぞかし活躍したことだろう。

ところが現実は違った。油井氏は、帰国子女にありがちな、「日本文化になじめない」という壁にぶち当たってしまう。

「授業で自分の思っていることを発言しますよね。そうすると浮いてしまうんです。すごく居心地が悪かった。『自分はアメリカナイズされてしまったのだろうか』と悩みました。日本の勉強に全くついていけませんでしたし」

アメリカでも日本でも、悩みを忘れさせてくれる時間は、音楽を聴いている時。くわえて、スポーツも楽しい時間になった。

「学校ではテニスを、週末はスイミングスクールに通っていました。どちらも個人スポーツ。私はチームスポーツが苦手です」

チームプレーが苦手な理由について油井氏は、アメリカ生活が影響したと分析している。バスケットボールでは、パスを出すより、自分でゴールを決めたい。バレーボールでも、後ろにいるより、前に出てアタックしたい。日本の子どもに人気があった野球やサッカーには、興味を持たなかった。

ますます強まる海外志向

1991年、日本のバブルが弾けようとしていたころ、油井氏は高校生になる。人生で初めてアルバイトを経験したのもこの頃だ。

「当時の日本は、まだバブルの時代です。高校生なのに、日給2万円のアルバイトを経験しました。大きな施設にふかふかの絨毯を敷く仕事をしたり。当時はDJブームだったので、稼いだお金でレコードを買いまくりました」

その頃の油井氏は、アメリカへ戻ることを強く意識するようになっていた。日本の高校生であれば、「予備校へ通い、いい大学へ入り、いい企業へ就職する」と考える人が多かった。当時は、企業が定年まで面倒を見てくれる「終身雇用」が信じられていた時代だ。油井氏は、そんな既定路線にのった生き方を疑問視していた。

1994年といえば、プロ野球選手の野茂英雄がアメリカのメジャーリーグへ挑戦することを決めた年。同じころ、油井氏はアメリカの大学へ入学した。大好きな音楽を仕事にしたいと考え、音響工学を専攻した。

「大学時代は、録音スタジオで仲間たちと楽しい時間も過ごせましたが、とにかく勉強が大変でした。苦労した思い出しかありません」

大学生活を「苦労した時代」と表現した油井氏は、その苦労に耐えられた理由を「小学生時代の経験があったから」と分析している。身を投じた場所で全力を尽くす。そんな姿勢が垣間見える。

その後、無事に大学を卒業することが決まった油井氏は、アメリカで仕事を探し始めた。時代は、マイクロソフトがwindows98を販売し、世界がアナログからデジタル時代を迎えようとしていた。

自身の生い立ちを熱く語る油井氏

点と点を結ぶ不思議な縁が

大学の卒業を控え、油井氏は日本の企業でインターンを経験している。映画やCMを手掛ける会社で音を録音したり加工したり。

「アメリカで仕事を見つけるには、インターンが有効な手段です。ところが、私は日本でインターンを経験したのが失敗。アメリカではコネはとても重要ですが、私にはコネが無かったので、結局、仕事を見つける事ができませんでした」

大学卒業と同時に仕事を得ることができなかった油井氏は、まずニューヨークへ移り住むことに。ライブハウスでアルバイトをしながら機会を伺った。そして、転機が訪れた。知り合った日本人アーティストが、ジャズ専門スタジオの仕事を紹介してくれたのだ。

「名前は、『ヒロさん』としか覚えていません。私よりも10歳ほど上。面倒見のいいギタリストでした。やはり縁は大切ですね」

大学を卒業したばかりの若者に、たいした仕事が与えられるはずもない。最初は、コピーをとったり、飲み物を買いに行ったり。ベビーシッターの様なこともした。そんな雑用の日々でも、油井氏は「楽しい毎日だった」と振り返る。

ついに訪れた飛躍の時

2年が過ぎたころ、ビザが取得できず新たな仕事を探さなければならなくなった。知り合いの紹介で、日本のテレビ局の現地法人で運よく仕事をすることに。ニューヨークに住み続けることが可能になった。ここでも、不思議な縁に恵まれている。

「役割は、リサーチや企画から現地で取材先の交渉や中継車・スタッフを手配するコーディネーターです。しばらくすると、自分が必要とされている喜びを感じると同時に、自分の中で仕事に対する責任感が芽生えてきました。特にテレビ中継は、失敗が許されない、影響が非常に大きい仕事ですから」

アメフトやモータースポーツの中継にも携わり、油井氏のキャリアは順調に見えた。ネタを見つけて番組に仕上げる仕事は、企画力を磨くことに役立った。ちょうどその頃、ポールマッカートニーへのインタビューにも携わる機会も得た。

「とても気さくな人でした。私は会うなりお礼を。すると彼は『むしろよく来てくれたね』と逆に感謝してくれたんです。とても感激しました」

油井氏がビジネスパーソンとして自信を深めていく様子が、話を聞いていて伺える。まるで、ようやく歯車が回り始めたようだ。ところが、楽しい時間は続かなかった。2001年、アメリカ同時多発テロが発生した。油井氏は、取材に奔走した。

「退去命令が出た現場近くで中継場所を探したり、犠牲者の家族へインタビューを申し込んだり、とても辛い役割りでした」

ポールマッカートニーやテロ犠牲者の家族との取材交渉。そうした経験を重ねるなかで、油井氏は交渉能力や提案力を磨いたことになる。油井氏もそのことを実感している。

アメリカでのタフな経験でビジネススキルを磨いたことを語る油井氏

日本人離れしたチャレンジ精神

テレビの仕事は順調だった。しかし、油井氏は日本への帰国を決断する。アメリカ同時多発テロのショックもあった。ビザの問題もあった。油井氏は、長く日本を離れたからこそ初めて本心から「日本へ戻りたい」と思ったそうだ。

その頃の日本では、ライブドアの堀江氏と楽天の三木谷氏がプロ野球へ参入しようとしていた。若い経営者が古い組織に風穴を開けようと奮闘する姿は、国民の大きな関心を集めた。その2004年は、流行語に「新規参入」が選ばれている。

油井氏は、日本に帰国すると一から仕事を探し始めた。「スーツを着て・履歴書を持って」という、ありきたりの就職活動はしていない。知り合いを訪ね、情報を集めた。そのコネクションの中に面白い人物がいた。

「当時、キッザニアはメキシコで大成功していました。そのキッザニアのビジネスモデルを日本へ持ち込もうとしている人に出会ったんです。『一緒にやらないか』と言われ、ワクワクしたことを覚えています」

これもまた縁である。こうして、油井氏はキッザニアの創業メンバーに参加した。

取材後記

油井氏の人生を振り返らせていただき、私は油井氏の反骨精神とたくましさを感じた。と同時に、「明日があるさ」と物事を気楽に考える柔軟性も持ち合わせている。その証拠に、油井氏の年代別エピソードは、連続性がないというか、断絶されているように見える。いつも人生を一からリスタート。それでも何とかなっている。とてもエネルギーを必要とする生き方だ。

固定観念にとらわれず、新しいことへ果敢に挑戦できるタフな精神力は、きっと小学生の頃に身につけたものだと思う。油井氏も、インタビューの中でそのようなことを認めていた。

今はMORIUMIUSの活動に全力を注いでいる。スタッフには日本人だけでなく、外国人のアーティストや短期労働者も参加している。インバウンド需要も取り込もうとしている。子どものころから多様性の中に身を置いてきた油井氏が、生き生きと働いている姿が、容易に想像できる。

油井氏の紹介

油井元太郎 1975年生 MORIUMIUSフィールドディレクター

アメリカで大学を卒業後、音楽やテレビの仕事を経て、キッザニアの創業メンバーとしてコンテンツの開発に取り組み、2006・09年に東京・甲子園にキッザニアをオープンさせる。2013年より宮城県石巻市雄勝町に残る廃校を自然の循環や土地の文化を体感する学び場として再生。地域資源をいかしたこどもの教育を通じた町の新生を目指す。2015年日経ビジネスが選ぶ次代を創る100人に選出

MORIUMIUS オフィシャルサイト

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伊藤祐介

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「世の中に届ける情報は自分の目と耳で確かめたものだけ』をモットーに、取材と撮影をベースにした執筆を続けています。サラリーマン経験が長く、ビジネス系のコンテンツ制作が主戦場。それでも最近はグルメ本の制作、動画制作など幅を広げています。

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