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長井杏奈

長井杏奈

生きるために食べるというより、食べるために生きている節があるフリーライター。好きが高じてグルメ系の記事を書くようになる。他には、ウェディング、トレンド、人事・採用系がメインジャンル。ライターの傍ら、司会・MC業も務めるパラレルワーカー。趣味は、一人旅に出ること、小説を読んだり書いたりすること、飲み会の幹事をすること。

2019年8月1日
日本の社窓から

ショップオーナー 中村新吾(株式会社CHP)/40年以上日本のサーフィンを支えるショップ

一説によると、サーフィンの歴史は西暦400年にまでさかのぼる。日本で古墳が作られていたころ、ハワイやタヒチに住んでいた古代ポリネシアの漁師たちは沖から戻る際、波に乗っていたのが起源とされている。

そして、1966年7月11日、第1回全日本サーフィン大会が千葉県鴨川市で開催されてから54年の時が過ぎた2020年、いよいよ近代オリンピックにおいてサーフィンが正式競技種目として開催されることになった。

記念すべき第一回の開催地として選ばれたのが、千葉県長生郡一宮町にある釣ヶ崎海岸だ。サーファーで知らぬものはいないこの土地は、いったいどんな町なのか。

今回はこの一宮で1976年に創業し、40年以上続くサーフショップ「株式会社カルホルニアハワイプロモーション(以下:CHP)」の2代目代表である中村新吾氏に迫る。

スポーツではなくカルチャーとしてサーフィンが根付くアメリカを肌で感じる

地元の人との繋がりが強く、この日も馴染みのカフェで取材を行った

今から半世紀近く前、日本人が海でやることといえば、海水浴や潮干狩りといったものばかり。しかし中村新吾氏の父である中村一巳氏が、ある新しい文化をアメリカから引っ提げてきた。それが、サーフィンだ

サラリーマンをしていた父が一宮でサーフィンショップを始めると、サーフィンに興味のある若者が店に集まるようになったという。中村氏も9歳ころから波に乗り始めたが、次第に海に足が向かなくなっていった。

「小学校の頃は少年野球が流行っていたし、中学ではギターを始めてバンド活動をしていました。お店に来るのは上の世代ばかりだったし、サーフィンより楽しいものができて、そっちに集中しました」

CHPのボード作りでは、熟練の職人がサーファー一人ひとりのオーダーメイドに応える

中学ではまた少し波に乗るようになったが、バンドに夢中だった。サーフィンはあくまで、友人と一緒に遊びとしてやっていたという。

高校に入りモデルの仕事を始めた中村氏だが、その時点で将来のビジョンが見えなかったという。卒業後もモデルを続けていたが、6月になると父の知り合いの伝手(つて)をたどって渡米した。

日本にいてやることが見つからないなら、アメリカに行ってみるのもいいのではないかと、周りからアドバイスされたことがきっかけだった。

アメリカでは、カリフォルニアにある語学学校に通いながら、サーフィンをできる機会をうかがっていた。初めは海までの交通手段がなく実現できなかったが、現地の日本人の知り合いができたことがきっかけで、週末は車に乗せてもらい一緒に海に行く生活が始まった。

アメリカでは、サーフィンがカルチャーとしてとらえられていました。今でこそ日本でもただのスポーツではなくライフスタイルとして楽しんでいますが、アメリカでは当時からそういう雰囲気があったんです」

日米でのサーフィンの違いを感じ、帰国した中村氏は進路について考えあぐねていた。大学への推薦状も獲得していたが、進学を決めていたわけではない。

いずれにせよ入学時期まで時間がしばらくあったため、父の経営するサーフショップCHPを手伝い始める。そしてそのまま、彼はCHPの二代目としてサーフィンの世界での道を歩き始めた。

プレイヤーではなくサーファーのサポート役としての役割を果たす

色々なボードを試せるのは、サーフィンをやるものとして贅沢な楽しみだという

父親の影響で帰国後サーフィンの世界に入っていった中村氏だが、実はプロサーファーで、今ではシェイパーとして活躍する弟の中村大輔氏の方が業界では有名だった

幼少期からスイミングスクールに通い、NSA全日本選手権のボーイズで入賞するなど、昔から名をはせていたという。

「4つ下の弟が活躍しているのを見ていて、すごいなと思ってました。今となったら自分ももう少しやっておけばと思いますが、当時はそうした気持ちはなかったです。とにかく、すごいなと

弟がサーファーとして成功していたこともあり、アメリカに行っていた兄は経営面でコーディネートしていくのではという話が業界に流れた。

モデル事務所に復帰することも可能だったが、ここで頑張れば何か自分のやりたいことが見つかるのではないかと思い、ショップに携わり続けた。

中村氏がサーフィンをやめたことから、父は弟には慎重にサーファー教育をしたという

自身がプロサーファーになる道は、あまり考えなかったという。競技としてではなく、サーフィンを自分が楽しんだり、サーファーに楽しんでもらったりすることに面白さを見出したのだ

そして、日本サーフィン界のレジェンドともいえる父が亡くなった後も、現在までCHPを守り続けている。今では多くのサーファーが頼りにする存在だが、自身では「サーフィン界に寄与できたと思えることはない」という。

所属しているプロで強化選手に指定されている人もいますけど、育成をしているとも思っていません。サーフィンは技術やセンスがものをいいますが、こちらからああしろこうしろと細かく言うことはないんです。彼らは自分よりもうまいわけですから」

謙虚にそう話す中村氏だが、サーファーのスカウトについても、物腰柔らかな考えを持っているようだ。

人のものをとる、みたいなことはやりません。うちのイメージに合うか、うちのボードにフィットするかを重視します。サーフボードは手作りですから、まったく同じものは作れません。だからうちのシェイパーとフィーリングが合うか、フィットするのかをみています

父親の時代はフリーのサーファーを強気にスカウトしたこともあったようだが、そうしたやり方とは一線を画しているようだ。

初のオリンピック会場となる一宮町のレガシーと課題

サーファーの集まる千葉の中でも、ひときわ人気の高い町が一宮だ

日本サーフィン界に来年、大きな歴史が刻まれる。オリンピックの競技種目に加えられるのだ。しかも第一回会場として選ばれたのが、CHPのある一宮町である

中村氏はこれを町のレガシーにしたいと考える一方、実際のところそれは行政次第という部分もあるという。

すでにサーフノミクスを掲げサーフィンの町として認知されている一宮は、都内から移住してくる人も増えている。3000万円で庭付き一戸建てが建つ土地の安さから、セカンドハウスとして購入する人も多いそうだ。

「町が盛り上がる一方、問題もあります。人が集まるのは海岸沿いだけで、街中はシャッター街になっているところが多いんです。山側の人には、お前の方はいいよなと言われることがあります。もっと町全体が盛り上がることを考えないと駄目ですね」

何か工夫を凝らさねば、オリンピックのチャンスを無駄にしてしまうという危機感を持っている。オリンピックが終わったら、この町の盛り上がりも終わりだろうと言われることも多い。

しかし、メディアに取り上げられることにより、サーフィンそのものが多くの人に認知され、一宮やショップを訪れる人も増えるのではないかという見方もある

オリンピック開催に向けて着々と変化している一宮の町

中村氏が店から見つめてきたこの40年、一宮の景色は大きく変わっている。ホテルができ、サーファーに向けた飲食店ができ、そしてサーフショップも増えた。

40年前はCHPだけだったショップも、今や店の前の通りだけで20軒ほど軒を連ねている。この街が今後どう変わっていくのか、一宮でサーフィンに携わる人間は誰もが思案しているようだ

そもそも、なぜ一宮はサーフィンが盛んになったのか。それは「波乗り道場」とも呼ばれる釣ヶ崎海岸の存在が大きい。ここは波のコンディションが非常によく、サーフィンのスキルが高い人たちが集まるのだ。

この海岸をホームにしプロとなっていったサーファーも少なくない。下手に素人がやってくると、ピリついた空気が流れることもあるという。

その一方、CHPの目の前の海岸は初心者でも乗りやすい。しかし、そこに問題がある。

「昔は高い敷居を乗り越えてサーフショップに行って、そこで色々なことを教わりました。だからその土地ならではのルールやマナーもわかったんです。でも今はネットで全部見れますからね」

ネットで知識を学んだだけでサーフィンを始め、海で怒鳴られたり事故に遭ったりするサーファーも出てきたという。この町にとってサーフィンは、チャンスであると同時に新しい問題をはらんでいることを、中村氏は理解している

サーフィンそして一宮への想いと、CHPのこれからの展望

そんな文化のあるこの土地で、中村氏は二代目としてCHPを経営している。いつも心がけているのは「サーフィンを楽しむ人を、つねにバックアップできる自分たちでいたい」という思いだ。

見ているだけで気分が明るくなる、鮮やかな色で覆われる外壁

コーポレートカラーのオレンジは、温かみはあるが、熱くとがっているわけではない。そして、朝焼けでもありサンセットでもある。

コーポレートカラーにもよく表れているこの姿勢が、多くのサーファーがCHPを愛し続けている理由かもしれない。

サーフィンを楽しむためのバックアップといったらおこがましいけど、うちのボードに乗ってくれたお客さんが少しでも満足して、楽しんでもらえたら。そこしかないんで、うちには

中村氏に、今後のCHPの展望を聞いた。

もう少しグローバルというか、サーフィンを通じて次の広がりを持てるような何かを考えたいです。それから、地域や町に結び付いていくことも

父親が創業した店を、サーフィン業界では珍しい二代目というポジションで守ってきた

半世紀近く、一宮の海とサーファーたちを見守ってきたCHPの代表らしい答えであった。まずは身の丈に合ったところから努力をし、余裕が出てきたころには環境についても考えたいという。

自然を相手にしているから、環境を守る意識は昔からあります。ただ、今までの自分たちができる範囲としては、海岸清掃くらいでした。これからはメーカーとして、CHPとして、何ができるか。何か取り掛かれるチャンスがあれば、すぐにでもやっていきたいです」

父の代から店を引継ぎ、一宮の海と街を見守り続けてきた中村氏。すでに業界で大きな役割を果たしているが、これからもその手腕は発揮され続けていくだろう。

一宮という街で、これらからCHPがどうなるのか、そして中村氏がどう進化していくのか、オリンピックが終わった後も注視したい存在だと感じさせた

取材後期

取材当日、店先の机でしばらく中村氏と談笑をしていた。そこで印象的だったのは、行きかう人々や車が、みな中村氏に合図を送ったり挨拶をしたりしていることだ。この町で愛されているCHPと中村氏という存在感の大きさを感じる出来事であった。

中村新吾さんのご紹介


株式会社カルホルニアハワイプロモーション代表者。モデルとして活躍後渡米、帰国してから父がオープンさせたサーフィンショップCHPで仕事を始める。現在は二代目として店を経営。

中村新吾さんのリンク集

CHP(CALIRONIA HAWAII PROMOTIONS)
https://www.chp.surf

CHP本店 Blog
https://ameblo.jp/chphongteng/

<取材協力>

レストラン SEASONG
https://sea-song.owst.jp

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生きるために食べるというより、食べるために生きている節があるフリーライター。好きが高じてグルメ系の記事を書くようになる。他には、ウェディング、トレンド、人事・採用系がメインジャンル。ライターの傍ら、司会・MC業も務めるパラレルワーカー。趣味は、一人旅に出ること、小説を読んだり書いたりすること、飲み会の幹事をすること。

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